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2011.04.19 Tue
オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガJohan Huizinga(1872~1945)は
人間の本質を「遊戯」に見出し、人類を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ類)」と定義しました。
 
カラスなども滑り台で遊ぶなど、生きるのに必要でない行動をとることが確認されているので、
人間だけが 遊ぶ生き物というわけではないですが、
遊びという行動は人間にとって 学ぶことと同じくらい大切なことです。

ホイジンガの『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』に影響された
ロジェ・カイヨワ(1913~1978)は著書『遊びと人間』の中で
「遊び」を定義したり、分類したりして考察しています。

遊びの定義


遊びの分類

▼参考
『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』(1938) ヨハン・ホイジンガ著
Johan Huizinga(1872~1945) オランダの歴史家

『遊びと人間』(1958) ロジェ・カイヨワ著
Roger Caillois(1913~1978) フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者


▼追記に ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』の中の 日本に関する記述
日本語における「遊び」の表現
▼以下引用

 日本語はシナ語とは対照的だが、その反面、現代西洋語とはよく似ていて、遊び機能の全体に対して、ただ一つの、まことに明確な言葉をもっている。またそれと関連して、遊びとは反対の真摯なものを言い表すのにも一つの反対語をもっている。名詞「あそび」、動詞「あそぶ」はひろく遊び一般にわたる意味のほか、緊張の緩み、娯楽、時間つぶし、気晴らし、遠足、物見遊山、浪費、賭け事、無為安逸、怠惰、無職などの意味を持っている。またそれは、何かを演ずる、あるものを表す、模倣するというときにも使われる。それから、オランダ語、ドイツ語、英語とまったく同様に、車輪とかその他の道具、機械類の限られた形の動きという意味のあることも言っておかなければならない(日本語の〈あそぶ〉は、工学上、応力を受くべきものが、応力を受けない状態をいうことがある)。注目すべきは、ある「師のもと」に遊ぶ、ある「土地に」遊ぶというような言い方があることで、これは、遊びという意味のラテン語「ルードゥス ludus」が学校という意味をもっていることを思い出させる。「あそぶ」はまた、闘いに際して本気にやらない、いい加減に誤魔化しながらするときにも用いられるが、ただ競技、闘いそのものを指しているのではない。ここでもまた、遊びと競技のあいだに引かれる境界線は、ギリシアのそれなどとは違っている。最後にシナ語の「玩」に比べられる意味として、日本の美的な茶の場も「遊ば」れるものである。茶の場の席では、陶器の茶碗が賞玩され、それを讃える言葉とともに次々と隣席の人の手へと回されてゆく。急速な動作、輝き、冗談を言うなど、前に見られた意味の関連は、日本語の「あそぶ」にはないようである。

 日本人の遊びについての考え方をもっと詳しく規定していくと、おそらくいまここでなしうるよりもさらに深く、日本文化の真髄まで考察を進めることができるであろう。ただ、いまは次のことを述べるだけで満足せざるをえない。すなわち、日本人の生活理想のなかでは、異常なまでの厳格さ、真面目さというものが、森羅万象はただ遊びにすぎざるなり、という虚構の思想の奥に隠されている、ということである。キリスト教中世の「騎士道」のように、日本の「武士道」も、あくまで遊びの領域のなかで展開されたのだった。日本語はいまでもまだ、遊びの発想を「遊ばせ言葉」、つまり上品な話し言葉として保ち続けている。これは身分の高い人々相互の会話に使われるものだが、これについては、高貴な人々はその行うすべてのことを、常にあそびとして、あそびながらやっているのだ、というように理解できよう。「あなたは東京につく」の鄭重な形は、文字どおり「あなたは東京におつき遊ばします」である。また、「私はあなたの父上が亡くなられたと聞きました」に対しては、「私はあなたの父上がお亡くなり遊ばしたとうかがいました」である。この表現方法は、私の見るところが正しければ、ドイツ語の「陛下は畏くも・・・・遊ばし給えり Seine Majestät haben geruht.」や、オランダ語の「どうぞ・・・遊ばしてください U gelieve.」に近い。畏れおおく仰ぎ見られる高貴の存在は、ただみずから進んであることを遊び給うというそのことが、ある行為をなし給うことになるのだ、というわけである。

 遊びの領域の中にあるこの貴族生活の婉曲ぶりに対して、真摯とか、遊びでないものとかを言い表すのに、日本語はまた非常にはっきりした概念をもっている。日本語の「まじめ」という言葉は、真摯、冷静、正直、厳粛、威厳を意味しているほかに、さらに落着き、礼儀正しさ、上品など、まことに複雑な含蓄がある。それはよく知られたシナ語の「面子を失う」という言い方のなかの「面」という言葉と関係がある。形容詞的用法では、そてにはまた、「無味乾燥な、面白みのない、実際的な」という意味がある。さらに言いまわし、成語として「これは真面目な話だ」とか「彼は冗談にやったことを真面目にとった」というような言い方も用いられている。
▲引用ここまで

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